瓊海市九曲江郷1(旧、楽会県互助郷)                波鰲村 上嶺園村 上辺嶺村

       

 日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属部隊は、1941年5月13日早朝、瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村を包囲し、 家から住民を追い出して、トラックに乗せて椰子寨の日本軍拠点に運び、日本刀などで殺害した。
 さらにその6日後、5月19日早朝、4両のトラックに乗って日本軍がふたたび上辺嶺村を襲い、村人を1軒の家に押し込めて焼き殺した。
 



波鰲村・上嶺園村・上辺嶺村の犠牲者の墓と追悼碑
墓碑
犠牲者129人すべての名が刻まれている
   

日本軍に焼かれた波鰲村の家の跡
 日本兵は、軍刀などで村人を殺したあと、遺体とともに家を燃やした。
 まだ生きている人も焼き殺された。
波鰲村で生き残った王京海さん(左)と林克連さん
     

瓊海市北岸郷(旧、楽会県北岸郷)

「五百人碑」遠景
「五百人碑」碑文
北岸村で

 1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、日本軍は北岸郷の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始した。
 数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺されたという。
 海南島に侵入した日本海軍は、「Y1作戦」(1939年2月〜11月)、「Y2作戦」(1940年2月〜4月)、「Y3作戦」(1941年2月〜3月)、  「Y4作戦」(1941年8月)、「Y5作戦」(1941年11月〜1942年1月)、「Y6作戦」(1942年6月)、「Y7作戦」(1942年11月〜43年6月)、  「Y8作戦」(1943年12月から1年間断続的に)、「Y9作戦」(1944年12月)をおこなった。
 日本軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、  略奪、人権侵害を重ねた。
 日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊が、北岸郷の北岸村と大洋村で住民虐殺をおこなったのは、「Y3作戦」と「Y4作戦」の中間期だった。

五百人碑
     

瓊海市九曲江郷2(旧、楽会県互助郷)
  坡村 長仙村 三古村 南橋村 雅昌村 佳文村
  風嶺村 吉嶺村 官園村  

“三・一”被難公塚紀念亭
“三・一”被難公塚の墓碑
   「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文
   風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」
“三・一”被難公塚

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中共瓊海県委党史辧公室編『瓊海革命闘争史』より
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